『味わう』~摂食障害と向き合いながら~
依存・・・、自分の意志では止められない、逃れられない状況を言います。
特に摂食障害にまつわる問題は深刻です。
物を食べても『美味しい』と感じない。
温かいお風呂に入っても『フゥー、気持ちいい』と感じない。
新緑の自然の中にいても、色とりどりの紅葉の中にいても、『美しい』『癒される』と感じない。etc.
「癒しを感じるような場所や物を受け入れることが難しいんです。
刺激の強い食べ物、騒々しいクラブ、強烈なライトボール、そっちの方が、気が休まるんです。」「自分の人生の中で、人を信頼するということがどういうものなのか、感じたことがないので、摂食障害の事を誰かに相談しようなどとは、はなから思っていませんでした。医者やカウンセラーの言葉など信じられない。自分の事だってだましだまし、生活してきたのだから・・。」
どうせ、私なんか・・・
どんなに頑張っても・・・
だれも理解してくれない・・
等々、自分を価値下げすることが先行するのです。
摂食に障害があると、計り知れない身体的な苦痛を伴います。吐くという行為自体が人に誇れるものではありませんから、精神的な落ち込みは自己否定をも助長します。それを幾度も、毎日、何年も続けてきたと言います。
「戻れるものなら、小さな子どもの頃に戻りたい。
子どもでいたかった。
大人の顔色を窺って期待に応えなくてもいいんだ。」
小さな心の器に入りきれないほどの事を受け入れ、背負ってきたことが想像できます。やがて、負えることと負えない事との度合いを体が察知できない状態になるのですね。
「泣いてもよかったんだ・・。
怒ってもよかったんだ・・。
不満を言ってもよかったんだ・・。」
悲しい時に悲しみを感じたり、楽しい時に楽しいと感じたり、そういう感情を味わえなくなるところまできてしまいますから、人と関わるのが怖い・・・。
それが人から誤解を招き、ますます疎遠になってしまいます。自分の心とも。
想像を超える沢山の物をお腹に入れても、美味しいものを『味わう』という体験は難しいのです。目的は『味わう』ことではないからです。
依存すべき幼い頃にそれが為されなかったとしたら、どこかでその穴埋めをしなければなりません。
ですから、大人になっても我儘とか子どもじみているというように、周囲から判断されることがあり、その事がまた新たな悩みとなって立ちはだかります。
多くの人が当たり前にできていることが、彼らにとっては当たり前ではないという事を知っていただきたいと思います。
「思春期を境に、『自分は人と違うみたい』という漠然とした不安に襲われた。
外見ばかりが気になりだすと、勉強は二の次です。
長く暗いトンネルの中で日々を送る・・・
段々と生きづらさを感じた。」
自分を窮地に追い込んでいくプロセスはどの方にも見られます。
人は誰でも他者を大切にしたいのです。自分のことも大切にされたいし・・・。
ところが心が弱っている方は、どうしたらいいかが分からない。人に対しても物事に対してもタフではないから。
タフさは他者から尊重されているという体験や、自身がしっかりと自分を受け止める土台が備わっていなければ得られない力です。
「食べることが少しずつだけど、大丈夫になってきました。
吐く回数が減った。
まだ、買い物したい気持ちには勝てないけど・・・。
子どもの時に我慢し過ぎたんでしょうか。」
中には、精神科医や心理カウンセラーとの信頼関係を築いたことがきっかけとなり、回復への道を少しずつ歩んでいる方もいらっしゃいます。
依存性が強い方たちがかかりやすい病気とも言われていますので、心理カウンセラーとして『境界線』をしっかりと示すことにしています。