子育て⑤『子どもの潜在的な可能性を観る』
今から20数年前に、教育研究の仕事に携わっていた時に出会った言葉です。
研究部会(幼児教育)のスーパーバイザーとして、東京大学の秋田喜代美先生にご助言をいただいたことが、懐かしく思い出されます。
時を同じくして、イタリアのレッジョ・エミリア市の教育に感銘を受けられた佐藤学先生と秋田先生は、日本にその在り方を紹介なさいました。
今や、多くの方がレッジョ・エミリア・アプローチの『個を活かす幼児教育』についてご存じかと思います。
町並みは、街灯やベンチ等、子どもたちが目にする全ての物のデザインや色は吟味され、子どもたちへの感化を意識したものばかりです。
全ての子どもは意思や個性を尊重され、それぞれの感性が生かされることを最重要事項としています。主体的に自分の人生を紡いでいくことにも繋がりますね。
大人の『主体性』が言われている今の日本ですが、大人になってからでは一朝一夕にはいかないようです。特に日本人は『どうぞ、お先に』と、譲り合いなのか、それとも人のやることを見てからでないと安心できないのかは分かりませんが、『はい!私、行きます!』と、最初のペンギンにはなりにくいようですね。
では、『主体性』とはどのように育まれていくのでしょうか?
結論から言えば、間違いを悪しきものとしない事。間違いを恥と感じない事。
つまり、間違いの向こうにある事に焦点を当てる。間違いからの更なる探究や挑戦を喜びとする。人との関係や社会においては、結果に対する責任をとる潔ぎよさは当然のことです。それらは、私たちが利他の精神を育み、社会の奉仕者として成熟していくことを助けてくれるでしょう。
もう少し掘り下げていきましょう。どうすれば、そうなっていくの?
それは、狭い価値観を子どもに押し付けない事です。
メソッドではなく、アプローチ。つまり、誰に対しても同じやり方を提供して目標に近づけるのではないのですね。育児書のようなマニュアルでもありません。ですから、常に変化が伴います。(大半の親はやっています 😊)
『梅は梅、桜は桜』~一見、似ていますが花が咲く時期も違えば、なる実も違う。同じように扱ってしまったら、どうなるでしょうか?
これを子どもたちに例えたら?想像してみてください。
ここで、レッジョ・アプローチの指針となる創設者ローリス・マラグッツィの詩の一部を抜粋します。
子どもには百とおりある。
子どもには百のことば
百の手 百の考え 百の考え方
遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方
驚き方 愛し方、
歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界
発明するのに 百の世界
夢見るのに 百の世界がある。
子どもには 百のことばがある
(それから、もっともっともっと)
『子どもたちの100の言葉:
レッジョ・エミリアの幼児教育実践記録』
(2001年)より
どの言葉もシンプルですが、何かがあふれ出るような、そんな力を感じます。
そうか!子どもの中には得体の知れない力が詰まっているんだ。
それを『潜在能力』とか『潜在的な可能性』って言うのですね。
つぼみはつぼみのままで、日光と水と栄養を適度に与えて時期を待つ。
そうすれば、咲く時期はそれぞれが知っていて、最高の形で咲いていくのです。
日光と水と栄養?
笑顔・喜び・感謝・祈り・認める言葉・ハグ・愛情いっぱいのごはん
清潔な衣服と寝床・団らん・聴くことetc.
そして、息吹を与える何か・・・。
どれも、高額なお金を必要とはしていません。あるのはハートかな?
知識が必要になるのは、まだまだ先の事。
必要に応じて、自らが行動を起こすことができること、選択したり判断したり決断したりですね。それこそが大切ですね。
そのような土台がしっかりと築かれていれば、やるべき(本人がそう感じる)時にやるべき(本人がそう感じる)事をやるのだと思います。
ですから、親の期待の質を変える・・・子どもの潜在的な可能性を観ることが先決ですね。
近頃、このようなことに気づき始めたお母さん方が、お一人またお一人という風に増えてきているように感じています